自己紹介
はじめまして、僕の名前は椙原俊典(すぎはらとしみち)です。
2人の小学生の息子をもつ43歳の父親です。(2025年1月現在)
そして、今ご覧いただいている、オンラインスクール 『 360 ACADEMY(サンロクマル・アカデミー) 』の代表です。
4年前、当時の僕は派遣社員として工場と警備の仕事を掛け持ちし、平日は朝6時前に家を出て片道2時間かけてバスと電車を乗り継いで工場に出勤し、残業をして夜の11時に帰宅。
週末には商業施設の警備の仕事のため24時間の泊まり込みの勤務に従事していました。
月間の労働時間は300時間を超える事も珍しくありませんでしたが、それだけ働いても時給1,200円の仕事では、街中でアパートを借りて2人の未就学の子どもがいる家計は、決して楽ではありませんでした。
子ども達とゆっくりできるのは、24時間の警備の仕事が終わった日曜日の朝、仮眠だけで疲れ切った僕を妻と子ども達が迎えに来てくれて、その後に近くのパン屋さんで少し遅い朝食をとる時間くらいでした。
その後、家で倒れ込むようにまた眠り、1週間の溜まった疲労とストレスが抜けきらない状態で夕方目を覚ましても、子ども達と元気に遊ぶ気にはなれず、家族4人の夕食の時間も、頭の中には「また明日からも、この1週間が繰り返されるのか」と、暗く、重苦しい気持ちを隠して笑顔を浮かべながら、自分は父親として、夫として、この先10年20年と子の暮らしを続けて、毎月ギリギリの生活費以外、子ども達と妻に、一体何を残せるのだろうかと絶望的な気持ちになっていました。
それは、突如として起こりました。
そんな暮らしを続けていた時、その「問題」は突如として顕在化しました。
最初は幼稚園年中の次男が、「幼稚園に行きたくない」と言い出しました。
僕と妻は、最初は子供によくありがちな行き渋りだと思って、園の先生にその事を伝えると、「園では楽しそうにしているから無理にでも連れてきてください」と言われ、嫌がる次男を無理やり抱えて登園させる日が続きました。
そうやって、年度が変り、長男は1年生、次男は年長になった春。
今度は長男が「学校がつらい。行きたくない。」と言い出すように。
最初は登校班の集合場所に妻が一緒についていき、しぶしぶ言っていたのが、徐々に拒絶反応が大きくなり、大声を出して嫌がるほどになりました。
僕と妻は、一抹の不安を感じながらも、入学して間もない頃はよくある事だと自分達に言い聞かせ、なだめたり、ご褒美で釣ったりしながら、なんとか学校に送り届けようと必死になりました。
しかし、息子たちの異変は徐々に大きくなり、家で落ち着きがなく騒ぎ立てたり、わざと親が困るようなことを立て続けにしたり、暴力的な態度になったり、特に朝の時間の情緒不安定が激しく、妻の力では制御できないほどの嫌がり方で、登校、登園を兄弟で拒否するようになりました。
僕と妻は「我が子たちは不登校になっているのでは」と考えざるを得ない状況になりました。
自分達の子どもが、不登校(不登園)になった。
当時の僕は、目の前が真っ暗になりました。
それはあまりに突然の事で、、、いえ、もしかしたら息子たちは、もうずっと前からSOSのサインを出していたのかもしれません。
そして、もしかしたら、妻もそのSOSを感じて、僕に何か伝えようとしてくれていたのかもしれません。
ただ、僕があまりに仕事に忙しすぎて、息子たちと妻が発するサインが見えていなかっただけなのかもしれません。
始まった崩壊は速度を増し、、、
それから、我が家が機能停止に陥るまで、わずか2か月程度しかかかりませんでした。
4月に息子たちの行き渋りがはじまり、強引に登校、登園させようとして以来、子ども達の情緒は不安定の一途をたどり、僕と妻は児童相談所に相談しました。
そこで、検査を受けた結果、息子たちは二人ともASDとADHDの発達特性を持っている事がわかりました。
僕と妻は、その診断を受けて「原因はちゃんとあったのか」と少しほっとした半面、ではこれからどうしよう?という課題に直面する事になりました。
当時の僕は、月間300時間労働から抜け出そうと、正規雇用の職を求めて自分を売り込んだり、副業をしようとパソコンに向かってWEBサイトやVRの制作スキルを学んだり、非常に不安定な状態でした。
仕事も収入もすべてが不安定で、相変わらず仕事のために家を空ける事が多く、状況は好転する兆しはありませんでした。
その間、妻は自宅のアパートで情緒不安定でエネルギーの発散場所に困って騒ぐ息子達と日中も時間を過ごし、疲労とストレスの限界に達していました。
そして、当時の僕と妻は、ひとまず疲弊した自分達の回復を図ろうという専門家の助言もあり、児童福祉のサービスを利用して何とか親の回復のための時間を取ろうとしました。
しかし、児童福祉サービスの場所でも、自宅に帰ってきてからも、子ども達の情緒不安定はエスカレートし、ついに限界を超えてしまいました。
救急車、警察、
そして家族は離れ離れに。
あの時感じた無力感と、その無力感を蒸発させてしまうくらい、腹の底から世の中すべてを呪い殺してしまいそうな怒りのエネルギー。
その日、妻はノイローゼが限界に達してパニックになり病院に緊急搬送、そして入院。
子ども達も興奮状態が限界を超え、警察のパトカーに乗せられ児童保護施設に緊急保護。
そして、僕は病院と児童保護施設での最低限の手続きを終えると、空っぽになったように、誰もいないアパートで、ただ天井を見つめていました。
何かが絶対におかしい。
なぜ、僕たち家族がこんな仕打ちを受けなければならない。
僕たちはなにか悪い事をしたのだろうか?
子どもとの時間を犠牲にしないと生活ができないような給与水準。
毎日自分を押し殺して、組織の歯車としてストレスで押しつぶされそうにならないとお金のもらえない、クソみたいな仕事。
良かろうが悪かろうが、結果として息子たちを追い詰めた学校教育と、回復につながらなかった児童福祉。
そして何より、そんな不完全でバグだらけの社会システムに最愛の家族の行く末を委ねるしかなかった自分自身のふがいなさに、心から怒りを覚えました。
何かが絶対におかしい。
中学生、高校生と優等生で、国立大学に現役合格したのに、なんでこんなにもふがいない人間ができあがってしまったんだ。
社会に出て20年も経つというのに、なんで毎日好きでもない仕事に縛られて、経済的に生殺与奪の権を奪われて、その結果、息子たちと妻がつらい思いをしている。
あぁ、もし、僕がこれまで読んできた本の中に書いてあったように、自分の大好きな事でメシを食っている奴らが本当に実在するとしたら、彼らと僕は一体何が違うんだ。
「週4時間だけ働く」とか、「1時間で数百万稼ぐ」とか、そんな次元の話じゃなくていい。
ただ、心が平穏に保てる仕事で、息子達と1日1時間でも、落ち着いて向き合い、語り合い、喜びを共有できる時間が持てて、自分は誰かの役に立てているという貢献感を感じながら眠りに就き、朝、体のだるさやめまい、胃痛を感じることなく目覚めて、今日という一日に感謝ができるようになりたいだけなのだ。
もし、毎日やりがいを感じられる仕事をして、子どもと向き合うための十分な時間を持てるのなら、僕はそんな人生を手に入れるためにどんな苦労だっていとわない。
息子達には、僕と同じような苦しみを味わわせてはいけない。
そのためなら、残りの人生をかけて、その方法を突き止めてやろう。
そして、息子たちが大人になってしまう前に、その方法を伝えなければ。
諦める事を、諦めた瞬間
僕がアパートに1人とり残されて数日後、僕は悪夢を見て全身びっしょりと汗をかいて目覚めました。
その悪夢は、僕に、この40年間の人生で味わったことのない、胸と腹を同時にえぐられるような鈍く、そして激しい感情を僕に残しました。
その悪夢の中で、長男が血まみれで、僕の腕の中で、息も絶え絶えになりながら力を振り絞って、口元に笑みを浮かべて僕にこういうのです、「とうさん、ごめんね、、、」
僕は、無念さと、悔しさと、怒りと、それから言葉にできないような他の感情を抱えて、その場で叫んでいました。そして、その瞬間、目が覚めました。
天の啓示というものがあるとすれば、この悪夢は、僕にとっての啓示でした。
僕は、僕の人生の他の何を犠牲にしても、この「今の現実」をぶち壊し、この悪夢を現実にさせないと誓いました。
僕自身も、将来の息子たちが、大好きな事でメシを食えるようになる。
つまりは、自己実現と経済的自立の両立。
これが実現すれば、今の僕たち家族の問題はほとんど解決する、そう自分に言い聞かせました。
僕は、正気を取り戻し、今まで自分が人生において身に着けた使えそうなスキル、応用できそうな少しばかりの小さな成功体験、避けるべき過ちなどについて思いを巡らし、コピー用紙の裏紙に書き出していきました。
さて、ここからは、コースプログラムの中で具体的に僕がこの体験から得た事を、あなたに共有させてください。
これはきわめて個人的な体験かもしれません。
しかし、もしあなたが僕と同じ事で悩んでいるとしたら、その僕の個人的な体験談の中から、あなたにとって役立つものがあると信じています。
2025年現在、
僕の子育てと仕事の環境
そして、その先へ。
2025年の現在、僕は月に2~3回のクライアントとの対面での面談を除いて、仕事のほとんどを自宅あるいはシェアオフィス、またはどこかのカフェで行っています。
自分の持っているスキルと経験で、企業や個人の問題を解決できる領域を定め、チャットやzoomで助言を行い、集客や採用の企画を立案し、必要なデジタル環境の構築を代行する事で収入を得ています。
息子達はというと、学校に行くようになり、友達もできました。
相変わらず学校の授業が楽しいか、つまらないかというと、両方混在しているというのが正直なところのようです。
大好きな先生もいるし、お気に入りの活動もある。
でも、恐ろしくつまらない授業や、興味のない活動に自分を縛り付けられるのは嫌。
以前と変わった事は、息子達も親も、
「別に学校を全否定するわけじゃないけど、全肯定もしない」
「生きていくために必要な事は、学校で学べる事もあるし、学べない事もある」
「学校に価値を感じる部分はありがたく享受し、足りない部分は家族や他で補う」
こんなスタンスになった事です。
支援学級に通っている息子たちは、通常級の同級生と一緒に活動する時もあれば、そうでない時もあります。
学校にほとんど行かなかった期間が半年くらいあるので、授業の単元によっては遅れているところももちろんあります。
でも、僕も妻も息子達も、進級や進学、将来の仕事の事について不安になる事はありません。
驚くほど、全くと言っていいほど。
なぜか?それは、僕たち親子は、これまでの約3年間の苦悩の中から、仕事の本質、自己実現と経済的な自立を両立させる事、つまり「大好きな事でメシを食っていく未来」の作り方を、はっきりとイメージできるようになったからだと言えます。
僕も妻も、息子達と過ごす時間が圧倒的に増え、夫婦間でも仕事の在り方や息子たちの将来について語りあう時間が増えました。
そして、何より、僕が毎朝起きて、パソコンに向かい文章を書いたり、動画を収録したり、クライアント企業の問題解決のための助言や企画立案を行い、デジタル技術を駆使して様々なものを創る日常は、全て、僕自身の日常を豊かにし、それはイコール、息子達に語るべき人生において必要な事のインスピレーションを生み出す源泉なのです。
顧客企業の抱える問題と解決策、その実行に必要なテクノロジーやものの考え方、まだまだ発展途上の僕自身の会社の改善点、そのヒントを得るために、外国の起業家やマーケターから学ぶ日々、資産形成を見据えての株式投資や、その他のデジタル資産構築のための新しい挑戦、、、
現在進行形で新しい事を学び、実践し、そこでの学びを息子達にかみ砕いて教育として伝える。
まるで、膨大な量の実践的な遺言を書きながら、それが同時に収入につながっているような気持ちです。
そうなんです、この学び舎は、僕が息子達に残したい「遺書」としての教育を、同じような課題を抱え奮闘しているあなたに、おすそ分けをする事で役立ててもらいたいという思いから創ったのです。